むえに記録

書きたい気持ちに素直になろう

戦姫絶唱シンフォギアAXZ 最終話まで観た感想

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 伝説となったライブ『シンフォギアライブ2016』最終日、あの熱狂の中で告知された『4期・5期』の期待値は正直、尋常じゃなかった。シンフォギアのストーリーが12話以上のスケールで構成されるのを望んでいたのは自分だけじゃないはず。 

 装者が増えたことで尺が足りてない疑惑のあるシンフォギアには、やっぱり腰を据えて長期的に作って欲しいと思っていた。詰め込みすぎが良くも悪くも特徴的なのがシンフォギアなので……。

 

 さて期待の第4期、特によかったところをあげていこう。

 

  • 『8話 過去と未来の狭間で』の完成度。

 まずはこの話数に言及しなければならないだろう。4期で積み重ねた描写を一気に焼却して熱い展開に仕上げていた。この熱量こそがシンフォギア、と言いたい。クリスとバルベルデ錬金術と愚者の石。哀しみを背負うクリスとマリア、互いの境遇を認め合うユニゾン。そしてステファン。熱い展開を作り上げる状況がロジカルに組み立てられていた印象がある。というかこの回のためにAXZがあったとも言える。シンフォギアGの10話、『喪失までのカウントダウン』を思い出す。あの戦いの完成度にも近しい情報の投入があった。

 特に、BGMの組み方が良かった。中盤のカリオストロ強襲から、クリスの戦闘曲『GUN BULLET XXX』はその瞬間のクリスの心境を雄弁に語っていたし、そこからのBGM選択も自然だった。ステファン「決意」の蹴りから、同じく「決意」を感じさせるユニゾン曲『Change the Future』が流れるのもいい。カリオストロとマリクリの焦りが曲に乗っかって、最終決戦を想起させる。「あーしの魅力は、爆発寸前ッ!!」なカリオストロが雄々しい叫びを上げて散っていくところまで、流れの必然性が感じられて心地いい。そりゃアレだけ激しく戦ったんだから、敗者は爆発するよね。様式美がある。

 ここの戦闘はシンフォギアとして完成形のように感じる。歌詞とセリフの融合。気合の入った歌声はもはや叫びとなっている。まさに『歌が燃える』。

 あと、マリアさん戦いながら唱うのが巧すぎる。

 他にも

 ・特訓中、司令の目がたびたび光るところ(やっぱこいつもオートスコアラーだろ)

 ・マリアの「遅い! ……だけど良いカオしてるから許すッ!」の溜め。

 ・カリオストロのデカいハート攻撃。(かわいい)

 ・『Change the Future』がG最終話でマリアがソロモンの杖の出力を引き上げバビロニアの宝物庫を開けたときの掛け声「明日をォォォォォォッ!!!」とリンクしてるところ。

 全体的な完成度ではAXZ中随一だと思う。

 

  • 『12話 AXZ』での錬金術師の三重唱。

 「死・を・灯・せ!!!」

 その瞬間、錬金術師3人にスポットライトが当たるところ。

 影で暗躍する「誰かを犠牲にする正義」の持ち主たちが、新たな正義を握りしめて命を燃やす最後の戦いでやっと、闇の中の彼女達にスポットライトが当たる。

 メインテーマである 「一にして全なるモノが死を灯す。」がまさか敵方の話とは。こういうこと普通にやっちゃうシンフォギアが好き。

 死を灯すというテーマは特に秀逸で、シンフォギアGでも扱われたこの「正義ゆえの自己犠牲」はシンフォギアとベストマッチだと思う。主要キャラは死ねないので、錬金術師たちを準主人公まで持ち上げて「死を灯す」ところまで盛り上げる手腕に震える。

 

 ついに女神ザババ以外のユニゾンが解禁された。GXの『BAYONET CHARGE』が好きだったので他のパターンも聴いてみたくて単純にワクワクした。キャラ同士の信念が歌で重なり合うのは、もうこういう長期にわたる歌アニメでしか実現できない大掛かりな仕掛けなので、シンフォギアの制作陣が羨ましくてたまらない。5期ではキャロルとか奏とかとどうにかしてユニゾンしてほしいです。歌でしか通わせられない想いがあると思うから。

 

  • 旧シリーズのBGM活用

 シンフォギア1期でやってた歌唱曲をBGMにするやつが好きだったので、旧シリーズの曲を聴けるのは嬉しかった。選曲の選択肢が広がったのもいいと思う。(今回の選曲が適切とは言ってない)

 

  • 響が敵と手をとりあえた

 ついに。1期の頃から「戦場(いくさば)で何を莫迦なことをッ!」と怒られていた響が、ようやく届いた。手を取り合うためにアームドギアを持たない響のあり方が報われたことが嬉しい。敵同士なのに「だとしても!!」と吠え立てられることが非常に尊いと思う。かっこよすぎる。

 

  • アダム・ヴァイスハウプトのキャラ

 公式ページの解説で散々無能と呼ばれるかわいそうな人。彼が人形だというのはまったく想像していなかった。やっぱ急に脱いだから、そういう趣味の変態人間にしか見えてなかったというのはある。強いキャラには理由があるのがシンフォギア。この人も真の姿を解放するときに目が光っていたけど……司令ってやっぱり……?

 倒置法でしか喋らないという狂気のキャラ付けがされていたが、三木眞一郎の表現力でやすやすと使いこなしていた。ラスボスの口調が面白いのズルいでしょ。

 そして、彼も哀しみを背負っている。

 「知られたくなかった……人形だと。

 見せたくなかった……こんな姿を!

 だけどもう……頭にツノを戴くしか無いじゃないかぁ僕も同じさ! 負けられないのは!!!」

 最終話のこのセリフは特に好きだ。圧倒的に強者だった統制局長がこんなセリフを吐くなんて、彼にとってもフィーネの力、そしてカストディアンの存在が恐怖であるのが見て取れる。

 ある意味、カストディアンという脅威に立ち向かう「正義」を彼も持ち合わせているのだ。変身後、急転して冷静な口調になるのも悲しい。神の力を喪った以上、彼は何をしたところで手遅れだと感じているのかもしれない。

「砕かれたのさ……希望は今日に」

 あと、口を寄生獣みたいに開けてビームを放つのかっこいい。

 

  • 5期への布石がマシマシ

 アヌンナキ「カストディアン」の降臨。護國の要となる「神の力」を狙う老人たち。原罪を祓われた「2人」の少女。「神の鏡」を纏える少女と、「神殺し」を身に宿す少女。

 ああ楽しみだ、とても。

 

以上。読んでいただきありがとうございました。

後編もあるかも。

俺ガイル 12巻 感想と考察

 小説「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。12巻」のネタバレをします。

  ようやくKindleでも発売されました。

 

  前巻から二年以上経ってるんですね。

 ずいぶんと待った気がします。

 あの寒いテラスに心を置き去りにしたまま、同じ学生だったはずの自分もいつの間にか社会人になってました。時の流れ、怖えぇ~~。

 

 さくっと感想を書いていきます。まず表紙。

 雪ノ下さん、だいぶ人間らしい表情をしていますね。

 序盤の巻ではなんというか、アニメ的な少女っぽいデフォルメ感があるキャラだったような気がしますが、成長したんですね~。

  彼女の瞳の先にはきっと、終わりが見えているのでしょう。

 

 本編キャラクターの話。由比ヶ浜さんがこれまでも度々見せていた他者コントロールを思いっきりやっていて恐ろしいんですが、同時に切ないですね。

 八幡と青春を過ごすために状況を利用して、ついには自然に一緒の下校をするようになりました。もうヒロインレースでゴールテープ切りそうな感じ。順当に行けば、ね。

 しかし順当に行かないひねくれ者ばかりの俺ガイルでは不安しか無かったです。お別れの前に、最後の交流をしてる感じ。

 八幡も由比ヶ浜さんとの距離感が心地よさそうにしてたけど、それでも雪ノ下さんのことが気になってるのが見えて、おいおい八幡……由比ヶ浜さんを見てあげて~という気持ちでした。今回、由比ヶ浜にスポットが当たってるようで八幡は実際、由比ヶ浜さんを全然意識してないんですよね。いろはすにドキドキしてるシーンのほうが多くて、いい意味で由比ヶ浜さんに慣れているというか。友達の枠に収まってしまったように思えて切なくなります。ユイユイ大勝利へのどんでん返しは待っているのか!?

 そもそも主人公の八幡は『本物』などという意味不明なものを追い求めていますが、由比ヶ浜さんは本物なんて欲しくないと断言してしまっています。彼女のあり方は、俺ガイルが目指す物語の否定形で、彼女が勝つ未来は俺ガイルの根幹を破壊してしまうのです。

 『本物』の正体について。

 八幡の言う本物とはなんなのでしょうか。短絡的に言えば、偽物の生ぬるい関係性を破壊する真実の刃だと思います。奉仕部3人の関係性を春乃に問われ、「三角関係」と答えてめちゃくちゃバカにされてましたが、流石に八幡も実態が三角関係だとは考えてないでしょう。少なくとも、雪乃と八幡はお互いに恋愛感情では結ばれてない。それ以前の段階だと思います。

 八幡が雪乃を語るときは常に、彼女の高潔な「あり方」に触れています。八幡にとって彼女は「人間として」好ましい人であり、恋愛感情に持っていくことをタブーとしているフシすら読み取れます。

 対して雪乃が「彼」について語るときは(大抵由比ヶ浜と一緒のときですが)酷く子供っぽい感情を口にしています。戸惑いしかない。彼女の中でその感情は「恋愛」と定義されていないでしょう。

 『本物』が恋愛感情ではないのなら、何なのでしょうか。八幡が望んでいる『本物』の奉仕部とは何なのでしょうか。

 八幡は奉仕部のことを会社に例えることが多いです。いわく、自分は平社員だから決定権がない……などなど。前から違和感がありました。八幡は自分のあり方に責任を持って、ときに自分を捨ててまで恐ろしい選択をしてしまう人物です。なのにどうして、奉仕部に対して責任を持たないのでしょうか。奉仕部の他のメンバーがどうしたいか、顔色を伺って自分の出方を決めてしまうのでしょうか。

 その行動は、八幡が望む「信頼」の現れだと思います。奉仕部のメンバーを信頼したい。大事な人たちを信じたい。この「大事な人」というキーワードは12巻でも何度か登場します。以前の八幡なら絶対に言わなかったでしょう。こんな強くて、多用すれば偽物になってしまう言葉を口にするなんて。八幡の想いの一端が現れているように思えてなりません。奉仕部のみんなを信頼したくてたまらない。でも、雪乃と関わるたびに彼女の脆さに気づき、手を差し伸べたくなる。由比ヶ浜の「ズルさ」に甘えながらも、こんな自分は自分じゃないと叱責する「心」を抱えている八幡。こんな状況じゃ信頼できませんよね。自分のことすら信じられていないのに。

 八幡は今の奉仕部を変えたいのでしょう。卒業や、それに至るタイムリミットまでに彼は本当の信頼できる仲間を手にしたくてたまらない。誰でもいいわけではなく、戸塚でも材木座でもない、彼女達の本当を手にしたいと願っている。奉仕部の活動が無くなってから、彼はそう再確認したように思います。

 『本物』の信頼関係だと確信するには、それをはかる試金石が必要ですよね。

 それが今回の事件だとしたら、なんというか、不安しかありません。

 彼らは『本物』へたどり着けるのでしょうか。

映画CHAOS;CHILD SILENT SKY感想 舞台挨拶とカオスの結末

 
 

舞台挨拶 松岡くんの想い

 
 6月24日に行われた映画CHAOS;CHILD SILENT SKYの舞台挨拶付き上映会に参加してきました。とても印象深かったので、ここに記しておこうと思います。
 登壇されたのは司会の角川の方と、松岡禎丞さんのみで、もう一人の登壇予定者である上坂すみれさんは残念ながら体調不良で欠席ということでした。しかしながらメッセージを預けられており、角川の方が代読してくれました。
 大好きなカオチャの舞台挨拶に出れなくて悔しいとのこと。上坂さんを始め出演者の皆さんは、ラジオ等でカオチャに対する想いをよく口にしていて、作品愛が深いのがよくわかります。上坂さんはまたどこかでカオチャについて語りたいとのこと。私もその機会を心待ちにしています。
 さて、そんな上坂さんのぶんまで20分しっかり話さなくてはならない松岡さんは、いつも通り緊張しながらも、信念を持った口調で話し始めました。ちなみに第一声は「僕はリア充だ!」でした。
 同じ科学シリーズのシュタインズ・ゲートを視聴して「すげえ」と感動していた松岡さんが、やがてカオチャの主人公に抜擢されて、「80%くらい信じてた」というアニメ化が発表され喜んだというお話から、宮代 拓留との共通点の話へ。 拓留と同じ"側"の高校生だったと話す松岡さんは、演じていて感情移入しやすかったとのこと。
 とくに女性に対する恐怖心という話をされている松岡さんの姿に拓留が重なって見えました。世莉架という都合のいい少女に頼ってしまう拓留の、醒めない夢から醒めてしまった本当の姿、剥き身の恐怖心をさらけ出し、克服してみせるのがサイレントスカイの大変エモいところですが、自身の恐怖心を大勢の観客の前で語る松岡さんはまさに終盤の拓留で、ああ……拓留の声優が松岡さんでよかった……と心から思いました。
 そして話題はついに、映画の話に。アニメ最終話の告知で『サイレントスカイ』の制作決定を知ったそうです。そんな急な話だったんですね。舞台挨拶は上映前なので映画のネタバレができず松岡さんもやりにくそうにしていましたが、劇場に集まったファンは「ゲームをやった人」という問いかけにほぼ全員が手を上げていたので、正直話してしまってもよかったのではないでしょうか。映画の見所を訊かれて「拓留と尾上が…○○になるんですよ!」と分かる人にしか分からないことを言っていました。
『……僕たちは、こうして一緒に生きていくんだ』
 20分の時間はあっという間に過ぎ、松岡さんから最後の一言。「観てください」だそうです。皆さんも観てくださいね。dアニメストアで現在配信中です!
 
 

劇場版カオスチャイルド サイレントスカイ

  ここからはゲーム本編のネタバレをしていきますので、未プレイは買ってプレイしてください。アニメで残念な気持ちになった人も、ゲームは段違いに面白いです。

 

 では良かったところと悪かったところを。

 映画の良かった点

・silent wind bellが流れた。

 Silent Skyのエンディング曲にして、拓留からみんなへのラブレター。この曲がカオチャの全てと言っても過言ではない、主人公の心境の変化が綴られるこの曲がゲームと同様にラストで流れて本当によかった。正直、流せないんじゃないかと思っていた。なぜなら"wind bell"、すなわち"風鈴"のシーンがアニメでは削られていたから。拓留が風鈴に書けなかった『願い』が、最後にようやく見つかっても、それを伝える手段はなくなってしまう。でも、それでいい。そのために彼らは戦ってきたのだから。そんなことを思いながら映画館で泣きました。

・『それがキミのやりたいことなの?』などのセリフが印象的に描かれていた。

 Silent Skyには印象的なセリフが詰め込まれている。彼と彼女の最後のひとときに相応しい、感情を乗せた言葉のやり取り。声優さんの熱演で、聞く人の感情に訴えかけてくるその言葉の数々が、映画でも印象に残るよう作られていた。ストーリーは尺の都合上、駆け足で進行していくが、それでも大切なセリフのところだけはゆっくりやっていたのが好印象だった。

 ……良かったところは以上です。次に悪かったところ。

・上映場所が渋谷じゃない。

 なぜか池袋でした。もったいない。

・世莉架が舞台のスポットライトを浴びる、一連のモノローグが無い

 ラスポスが退場して、緊張感から開放された中、また世莉架の一人視点に戻ってからsilent wind bellが流れるラストまでの間、世莉架は失ったはずの記憶に導かれ、『劇場』へと足を運ぶ。全てが終わってしまった後、残り続ける想い。哀しみ。長い物語を、ほんの少しの独白の中に集約させる、強烈な表現。私は、カオスチャイルドがここまで人の心を揺さぶる理由がこのモノローグにあると思っています。全体から見ればほんの僅かな、だけど大切な彼女の独白。得体の知れない殺人鬼の役割から開放された彼女の、想いの残滓。失わなければならない想い。失ってしまった哀しみ。カオスチャイルドという物語は、このシーンのためにある。私はそう思ってしまうほど、この独白が好きです。

 それが、無かった。映画では、12話の映像を使いまわして、モノローグなしに終わりました。世莉架は
「舞台の照明が、まるでスポットライトのように、『私』に降り注いでいた。」
 と感じることなく終わりを迎えてしまった。鳴り止まない拍手に送られることもなく、ぬるりとsilent wind bellが流れた。私はそれが、酷く悲しかった。

・映画の後半、全然絵が動かない。

 予算の都合でしょうか。全く動く気配のない最終決戦を見るのは辛かった。ほんと、このアニメはなんで、こうなんでしょうか。

 

カオスの結末 作品から何を得たか

 ここからは、Silent Skyまで観た個人的なまとめです。

 原作ゲームをプレイしたとき、私はエンディングを見た後一週間近く、打ちのめされてもう動けませんでした。なぜこんなにも心を打たれたのか。その答えは、やはり物語の終わり方にあると思います。熱に浮かされるような狂気、カオスに蝕まれていく本編を終えた後、静かな空に染み渡るようなSilent Sky編が始まること。夏休みの終わりに夜道を歩くような寂寥感。この物語の結末について自然と考えてしまう。これで良かったんだろうか、いや良かったことにしなければいけないと、諦めとも違う感情、エンディングの魔力によって閉じていく。面白かった、哀しかった、恐ろしかった。そんな感情がごちゃまぜになって、私は悔しくなった。長い物語がきれいに閉じて、終りを迎えるのが寂しくて、そういう感情を歓喜させる物語を、自分ではない誰かが作っていることが、私はたまらなく悔しい。人の感情を揺さぶる作品、それは物語の到達点。生まれてきた意味を証明する、創作家が作りたい究極のもの。それを作れない自分が嫌でたまらなくなり、一週間くらい動けなくなる。

 きっと、私がこのカオスチャイルドから得たものは、狂気なのだ。

 混ざりあった感情。きっとこれをカオス呼ぶ。

 良い作品を作りたいと思う、カオスより生まれた気持ち。

 それが僕のやりたいこと。

 この気持ちを抱えたまま日々を過ごす。

 ……僕たちは、こうして一緒に生きていくんだ。

 

 ありがとうございました。

Undertale 自由度の暴力【感想】

 昨日、ゼルダの伝説ブレスオブザワイルドが神ゲーだという話をした。

 ちょうどいい機会なので、直近でプレイしたUndertaleについても少しだけ筆を走らせよう。なぜならUndertaleもまた、自由度が生み出した神ゲーなのだから。

 

自由度はまるで暴力のように私たちの心を揺さぶる

 ここからはUndertaleのネタバレをしていくので、全ルートをクリアした人以外はぜひともプレイしてきて欲しい。後悔はさせない。

 

 さて、Undertaleでの自由度はどういったものだったのだろうか。私はこれを、殺戮の許可だと考える。プレイヤーはキャラクターを殺して経験値を奪い取ってもいいし、みんなと和解して幸せなエンディングを迎えてもいい。

 まさか最初から目につくキャラクターを虐殺しまくった人はいないだろう。いないと信じたい。大抵の人は何人か殺したり殺さなかったりでゲーム性を理解し、Pルートを進んでいくんだと思う。私も最初Torielを殺してしまい、あれ…まさかこれ、殺さなくてもいけるヤツだった!? と焦りやり直しました。(そして一部始終を見ていたFloweyに罵られた)

 ゲームの展開から、キャラクターを殺しちゃいけないゲームだと誘導される。これはある意味、自由度の剥奪だ。そしてプレイヤーの“セーブで上書きしたはずの行動”もFloweyやSansに知られているとなると、滅多なことはできない。もはや普通のゲームよりも行動の自由度が少ないんじゃないか。そう錯覚してしまう。

 しかし、Gルートをプレイ済みのみなさんなら知っているだろう。我々はその『自由度の制限』を打ち破ることができる。誰も殺さずにハッピーエンドを迎えたPルートのエンディングで、プレイヤーにそれとなく、殺戮の許可証を渡してくるキャラクターがいる。どうしてもというのなら、リセットしてもいいよ、と悪魔のささやきを耳にして、我々はGENOCIDEに手を染めるのだ。好きに殺し、雪だるまから取れるだけアイスを奪って、友達の兄弟を殺す。自分を止めるために世界から望まれたヒーローだってパターンを覚えれば殺せる。罪が背中を這い登るのを感じながら、指定された*決意の数を満たすために殺し回る。まるで野に解き放たれた自由な殺人鬼のように。

 そしてSansが誅罰のごとく最後に待ち構えているわけだが、ここでの会話も印象的だ。ゲーム世界のネタばらしが戦闘中に行われて、プレイヤーは自分の立ち位置が分からなくなる。自由度の果てにあるこの死闘がどんな意味を持つのか分からないまま、コンティニューをし続ける羽目になるのだ。

 私は正直、なんのために戦っているのか分からなくなった。Sansの倒し方を調べていくうちにSansの死に様も、その先に待ち受けているCharaとの会話も知ってしまい、ゲームが途方もないエンディングを迎えると『ネタバレ』されてしまった後になぜ戦うのか。もうやめてもいいんじゃないか。そう思ってハッとする。戦いをやめることも、戦い続けることも『自由』なのだと。

 このゲームが抱えている自由度に暴力性を感じたのはこのときだ。知らず突きつけられている、透明で無言の選択肢がこの世界の命運を左右してしまう。これはゲームか? 本当にゲームなのだろうか? もはや私は、現実に現れる選択の痛みと同様のものを感じてしまっていた。選ぶ苦しみから逃げるために、私は無心でSansに挑み、やがて殺した。

 自分の選択で世界が動くのは、ゲームの特権であり、ゲームならではの楽しみだ。それを自由度という。ゼルダbotwはプレイヤーの行動を制限せず、世界の変化を許容して、それでも世界が成り立つように緻密な設計がされていた。

 対してUndertaleでは、プレイヤーの自由な殺戮が世界に致命的な一撃を加える。一度Gルートをクリアしてしまえば、不可逆の改変が世界に行われてしまう。暴力的な自由度に、私は打ちのめされてしまった。神ゲーだった。だけど、神ゲーの一言では終わらせられない、恐ろしいゲームだった。

 そして一番恐ろしいのは、このゲームがほとんど一人のアマチュア製作者の手によって作られていることだ。Toby Fox……恐ろしすぎる。

 ゲームはこんなにも恐ろしい経験をプレイヤーに与え、しかもそんな恐ろしいゲームを一人の人間が作れるのだと知る貴重な体験のできるゲームだった。

ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルドを一言でいうと…【ゲーム感想】

神ゲー

 

 

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…………。

これだけで終わっちゃうとなんかホントダメなので、少しだけ補足しますね。

 

選択肢が無限!? 自由度の暴力

  プレイしていて一番思ったのがこれ。できることが多すぎる。

例えばりんごの木があります。手を伸ばせば届く範囲に一つりんごがあって、ジャンプすればもう一つりんごが取れます。……ここまでは分かる。

 さらに、木に登ればもっと高いところにりんごがあるけど、木登りするより他の木を探してりんごを取ったほうが速いかもしれない。これが一つの選択肢。りんごを取る自由。あなたは几帳面に一本の木から取れるだけりんごを取ってもいいし、取れる範囲だけ、それこそジャンプを使わず手の届く範囲のりんごだけ回収していくのも自由。

 あるいは、木を切り倒してりんごを地面に落としてもいい。または鈍器を使って木の幹を叩き、衝撃でりんごを落とす手もあるし、弓矢でりんごを射て落とすことだってできる。もういっそ、松明で木を燃やしてしまえば簡単だ。

 そしてその場合、燃えたりんごは「焼きリンゴ」となり、食べた時の回復量も1.5倍になるのだ。これぞ自由。

 りんご一つとってもこれだけの選択肢がある。ブレスオブザワイルドの世界には、りんごのようなアイテムが無数にあって、プレイヤーは全てに対して選択を下していく。ストーリーを一直線に進めてもいい。寄り道をいっぱいして、結果めちゃくちゃ強くなってもいい。もう直接ラスボスのところまで乗り込むことだってできる。

 実際私は、ラストダンジョンに入ってから一度もダメージを食らわずにゲームをクリアしてしまった。初見で。そんなことができてしまうほど自由で、暴力的なまでに世界は可能性に満ちている。まるでそこで生きているかのように錯覚するほど、世界は私達の選択によって変化していく。

 この世界で生きていきたい。ゲーム中、この世界で自分は確かに生きていた。そう思わせたらもう、ゲーム作者の勝ちだ。敗者であるプレイヤーは、クリアして放心状態のまま、頭を垂れて言う。「このゲームは神ゲーだ」と……。

 

高揚感の話

 私がゲームについて考える上で、上記の「この世界で生きてる感」と同じくらい重視しているのが「高揚感」なので、ちょっとだけその話をする。

 私の理想としては、ゲームが終盤になるにつれどんどん高揚感が増していき、ゲームクリア後にその高揚感、切迫感が昇華され、堰を切ったように溢れ出す満足感へと変わっていく、その瞬間に自然と涙がこぼれてしまうゲームが最高だと思う。

 その点、ブレスオブザワイルドはその域には達していなかった。いや、涙は出たけれど、かなり「音楽に助けられた」部分が多いように思える。シーンとしてエモいのではなく、数少ない音楽にエモさが凝縮されているから、それを思い出して泣けるというか。決して不満なわけじゃない。多分、理由も分かっている。

 終盤に向かっての高揚感というのは、自由度の解放と、ストーリー的にどんどん閉塞感が生まれるこのアンバランスさの上にあると考えている。タイムリミットが迫ってきて、登場人物の命やらが失われていき、でも移動手段が増えてあちこちに行ける。でも世界は……、みたいな。

 ブレスオブザワイルドは最初から自由度MAXで、それをいかなる手段でも阻害しないように作られている。ゆえに開放されるべき「自由度」はもう満ち足りているし、閉塞感も感じさせない。タイムリミットなんてどこにもない。誰にも急かされることなく寄り道ができる。そういうゲームだ。だから、一般的な手段では高揚感を喚起させることは難しかったのかもしれない。でも、だからこそ私は……!

 ストーリーで感動させて欲しかった!!

 いやミファーや終盤のゼルダはいい。いいんだけど、まだ足りないんだ!!

 もっとできたはず。これだけの神ゲーを作れるあなたたちなら! もっと!!

 

 神ゲーをありがとうございました。

 次回作はもっと、ストーリーでも感動できる、究極のゲーム待っています。

 きっとあなたたちならできるはずです。

 

劇場版BLAME!は光と音のアトラクションだった【映画感想】

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 5月20日より公開されたアニメ映画『BLAME!(ブラム!)』を観てきた。

 SFマンガ界の鬼才、弐瓶勉が原作のアニメ化企画第二弾、シドニアの騎士から更にパワーアップした3Dで表現される本作の感想を、ネタバレしながら書いていこうと思う。

 

まるでアトラクションのような映画

 重力子放射線射出装置を撃ったときの地響きのような腹の底を揺らす爆音。あるいは金属同士が擦れ合い、地面を削り取る勢いで進む四脚ロボットの甲高い足音。現実ではなかなか耳にしない戦いの衝撃音が、この映画には余すところ無くちりばめられている。前作シドニアの騎士でも音響のこだわりについてかなり高評価を得ていたが、その実力は今作でも健在だ。よくある安っぽいSEなんか比ではない、現実離れした効果音を、間違いなくここに存在すると思わせる、説得力のある音選びと音響技術。思わず耳を奪われてしまう素晴らしい効果音だった。これだけで私は大満足だ。やっぱ映画は音だよね!

 しかし音だけじゃない。光だ。弐瓶勉が描く巨大建造物や機械には大抵ビカッと光る。薄暗くだだっ広い世界で、人工物の明かりがコントラストを作り出し、画面はまるで絵画のような厳かさを持つ。作中はだいたいの場所が暗く不安を掻き立てられ、だからこそ光は効果的だ。その輝きは安心感をもたらすこともあれば、巨大な敵の目玉だったりもする。3D作品だからこそできる、細やかな光の演出を劇場の大スクリーンで見るともう圧巻だ。満足度が尋常じゃない。

 今作はかなりの場面で戦闘が描かれている。人間ではとても敵わないような敵と挑まなければならない苦悩と、無慈悲に死んでいく仲間たち。映像と音も相まって、五感に訴えかけている恐怖の感情。数少ない人類がバンバン死んでいく悲壮感。手に汗握る展開の連続に、心拍数はどんどん上がっていく。映画を観終わった頃には、アトラクションを楽しんだ後のような満足感を得ることだろう。

 

3Dなのにキャラがめっちゃかわいい

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  もう一つ、この映画の魅力をあげるとすればキャラクターの描写だろう。

 上記の画像はヒロインの「づる」が、自分を助けてくれた未知の存在「霧亥」に言われるがまま、恐る恐るヘルメットを取るシーン。可愛いすぎでは?

 シドニアの騎士一期の頃は登場人物がマネキンなどと揶揄されていた3Dアニメ業界が、よもやこれほどキャラを可愛く表現できるようになるとは。

 彼女だけでなく、長身美女のシボさんや片腕銃なサナカンなど、美人を上手く描けている。よく動くぶん、普通のアニメよりも可愛く感じるかもしれない。萌え豚が蔓延るアニメ産業にあって、女性キャラを可愛く描けるかどうかは死活問題なので3Dアニメとして一定水準をゆうに越したキャラ描写は新たな時代を切り開くトリガーとなるか!? そんなことはどうでも良くて、づるちゃんが可愛いので私はハッピーです。

 3Dでアニメを作るときに障害となることは幾つかあるが、その一つが「おっぱい硬すぎ問題」である。それを実は今作、克服している。すごく、おっぱいが柔らかいのだ。どう柔らかいかは、ぜひ劇場に足を運んで確認して欲しい。もう観た方、あそこすごくよかったよね。しょうじき一番印象に残ったシーンです。

 

作者の趣味全開

 「人は作品に感動するのではなく、それを描いた創り手に感動するのだ」

 という言葉がある。BLAME!はまさに弐瓶勉の描きたいものが詰め込まれた、彼の人格が埋め込まれた作品だった。原作をそのままなぞった映画ではなく、いま3Dができること、決められた時間でできる範囲の物語、という前提の上で原作が再構築され、色んな設定を改変・カットしながらも一つのまとまった物語を作り出す。商業作品として必ず成功するプラットフォームを構築しながらも、その周りを趣味で固めるような大胆さ。きっとこの作品をまとめるのは非常に大変だったと思う。その努力に私は感動するし、その情熱に尊敬の念を抱く。広大な建造物と、無機質ながら恐ろしい機械。薄汚れたバトルスーツに、強烈な威力の銃。それらの要素を繋ぎ合わせて、人の心を打つ素敵な映画だった。

 

映画『夜は短し歩けよ乙女』感想

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 先日、「夜は短し歩けよ乙女」という映画を観てきました。

 なんというかまあ、感想ブログを書きたい衝動に駆られたのでここは素直にやっていこうと思います。ネタバレを含むのでご容赦ください。

 

映画が時間を支配する

 館内の照明が落ち、私達の視線がスクリーンに集まる。映写機は切り取られた時間を静かに映し出し、物語は現実から解き放たれた場所へ私達を誘う。時を忘れ、季節を忘れ、ここが何処なのかも分からなくなるほど遠く離れた世界に辿り着く。そこは映画の世界で、時間すら映画の支配下にあり、私達は映画の流れに身を委ねる他ないのだ。

夜は短し歩けよ乙女」は一つ、大きなテーマとして時間を扱った作品である。私達の感じる時間、長いか短いか、楽しい時間はあっという間に過ぎ、退屈な時間は呪いのように鈍い。小学生の夏休みは永遠だ。社会人にとってのゴールデンウィークは、……思っていたより短かった。もう金曜日だぜ? 瞬きを7回したらもう終盤になっている。もっと遊びたかった。

 さて大学生にとっての時間はどうなのだろう。

 経験から言うと、早くもあり遅くもあった。森見登美彦も同じように感じたのだろう。大学生には停滞の時期と、まるで光のように駆け抜ける時期がある。この映画「夜は短し歩けよ乙女」はまさしく後者を描いたもので、一年が過ぎたように目まぐるしく変わる、されどたった一夜の物語である。

  この映画は原作と異なる点が多々あり、最も大きい差異として挙げられるのが「一夜の物語として濃縮されている」ことであろう。明らかに季節を跨いでいるのに、数時間しか経っていないと登場人物たちは言う。そんなわけあるか、と突っ込みたくなる気持ちをグッと抑えて、まあまあ映画だからと見て見ぬふりをする。そうして、映画が時間を支配する。あっという間に90分が過ぎる。

 

虚構の大学生活

 森見登美彦が描く世界は、魔法が溢れている。

 湯浅監督の描く世界には、魔法が息づいている。

 そんな彼らがタッグを組んで、描き上げた本作の大学生活は何かもう、魔法の力が強すぎて眩しいのだ。大学生活ってこんなに楽しそうだっけ? 自分の体験に照らし合わせて、こんなの虚構だと糾弾したくもなる。世界に色がつきすぎている。原作では主人公の性格が良い塩梅に後ろ向きなので共感できたが、映画では無理だ。ここは自分にとって残念な点であった。そういえば映画館には年頃のカップルが多かったように思える。彼らにとって、映画は現実に近しいものだったのだろうか。知る手段はない。私はリア充を見ると爆砕してしまうから。私が、爆砕してしまうのだ。恋愛反物質だから。

 大学生という身分を失ってから、初めての映画鑑賞だった。学生の取れた大人料金で、ゴールデンウィークの人が溢れる映画館。滅多なことがなければ、私はもう平日昼間のガラガラな映画館に足を踏み入れることは叶わない。ああああ、なんと儚きことかな。こんなことならもっと大学生を続ければよかった。作中の「先輩」のように、文系で院進学するような選択を取れれば、何かが変わっていたのかもしれない。映画館で繰り広げられる虚構の大学生活を眺めながら、過ぎたことをクヨクヨ悩んでしまった。五月病である。虚構に住まう黒髪の乙女よ、姿を見せて私を慰めておくれ。そんなことを言ってたら、もうすぐゴールデンウィークも終わってしまうのだ。

 社会人になったら自由時間の使い方も変わって、もっとこう、フレキシブルに活動できるかと思っていたが、実態は大学生のぐーたら無気力のままだった。人はそう簡単に変われるものでは無い。私の大学生活は無気力そのもので、年間365連休が毎年続いて、唯一頑張ったのはうるう年の一日くらいだ。一日だけ就活を頑張って、無事社会人の仲間入りを果たした。もう頑張れる気がしない。そうやってダラダラしてると、一日は飛ぶように過ぎていく。まるで魔法だ。日々加速していく、ルーチンワークの毎日に、ふと振り返って学生時代を想う。すると、なんだが学生時代は充実してたんじゃないかな、少なくとも今よりは時間が長く感じたぞ。そうだ、学生の頃は毎日が楽しかったんだ。全てがキラキラしていた! ビバ素晴らしき学生生活!!

 思い込みが虚構の学生時代を捏造していく。その原動力は、昔に戻りたいという願いだ。願いが虚構を創り出す。「夜は短し歩けよ乙女」はそんな想いが形を成したもの、なのかもしれない。大学生活を手放して、今の私はそう想う。

 せめて私も創作物の中では、ハツラツとしていたいものだ。

 ゴールデンウィークの終わりに、私は同人ゲームの企画書を書きながら、そう願っていた。