むえに記録

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映画『夜は短し歩けよ乙女』感想

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 先日、「夜は短し歩けよ乙女」という映画を観てきました。

 なんというかまあ、感想ブログを書きたい衝動に駆られたのでここは素直にやっていこうと思います。ネタバレを含むのでご容赦ください。

 

映画が時間を支配する

 館内の照明が落ち、私達の視線がスクリーンに集まる。映写機は切り取られた時間を静かに映し出し、物語は現実から解き放たれた場所へ私達を誘う。時を忘れ、季節を忘れ、ここが何処なのかも分からなくなるほど遠く離れた世界に辿り着く。そこは映画の世界で、時間すら映画の支配下にあり、私達は映画の流れに身を委ねる他ないのだ。

夜は短し歩けよ乙女」は一つ、大きなテーマとして時間を扱った作品である。私達の感じる時間、長いか短いか、楽しい時間はあっという間に過ぎ、退屈な時間は呪いのように鈍い。小学生の夏休みは永遠だ。社会人にとってのゴールデンウィークは、……思っていたより短かった。もう金曜日だぜ? 瞬きを7回したらもう終盤になっている。もっと遊びたかった。

 さて大学生にとっての時間はどうなのだろう。

 経験から言うと、早くもあり遅くもあった。森見登美彦も同じように感じたのだろう。大学生には停滞の時期と、まるで光のように駆け抜ける時期がある。この映画「夜は短し歩けよ乙女」はまさしく後者を描いたもので、一年が過ぎたように目まぐるしく変わる、されどたった一夜の物語である。

  この映画は原作と異なる点が多々あり、最も大きい差異として挙げられるのが「一夜の物語として濃縮されている」ことであろう。明らかに季節を跨いでいるのに、数時間しか経っていないと登場人物たちは言う。そんなわけあるか、と突っ込みたくなる気持ちをグッと抑えて、まあまあ映画だからと見て見ぬふりをする。そうして、映画が時間を支配する。あっという間に90分が過ぎる。

 

虚構の大学生活

 森見登美彦が描く世界は、魔法が溢れている。

 湯浅監督の描く世界には、魔法が息づいている。

 そんな彼らがタッグを組んで、描き上げた本作の大学生活は何かもう、魔法の力が強すぎて眩しいのだ。大学生活ってこんなに楽しそうだっけ? 自分の体験に照らし合わせて、こんなの虚構だと糾弾したくもなる。世界に色がつきすぎている。原作では主人公の性格が良い塩梅に後ろ向きなので共感できたが、映画では無理だ。ここは自分にとって残念な点であった。そういえば映画館には年頃のカップルが多かったように思える。彼らにとって、映画は現実に近しいものだったのだろうか。知る手段はない。私はリア充を見ると爆砕してしまうから。私が、爆砕してしまうのだ。恋愛反物質だから。

 大学生という身分を失ってから、初めての映画鑑賞だった。学生の取れた大人料金で、ゴールデンウィークの人が溢れる映画館。滅多なことがなければ、私はもう平日昼間のガラガラな映画館に足を踏み入れることは叶わない。ああああ、なんと儚きことかな。こんなことならもっと大学生を続ければよかった。作中の「先輩」のように、文系で院進学するような選択を取れれば、何かが変わっていたのかもしれない。映画館で繰り広げられる虚構の大学生活を眺めながら、過ぎたことをクヨクヨ悩んでしまった。五月病である。虚構に住まう黒髪の乙女よ、姿を見せて私を慰めておくれ。そんなことを言ってたら、もうすぐゴールデンウィークも終わってしまうのだ。

 社会人になったら自由時間の使い方も変わって、もっとこう、フレキシブルに活動できるかと思っていたが、実態は大学生のぐーたら無気力のままだった。人はそう簡単に変われるものでは無い。私の大学生活は無気力そのもので、年間365連休が毎年続いて、唯一頑張ったのはうるう年の一日くらいだ。一日だけ就活を頑張って、無事社会人の仲間入りを果たした。もう頑張れる気がしない。そうやってダラダラしてると、一日は飛ぶように過ぎていく。まるで魔法だ。日々加速していく、ルーチンワークの毎日に、ふと振り返って学生時代を想う。すると、なんだが学生時代は充実してたんじゃないかな、少なくとも今よりは時間が長く感じたぞ。そうだ、学生の頃は毎日が楽しかったんだ。全てがキラキラしていた! ビバ素晴らしき学生生活!!

 思い込みが虚構の学生時代を捏造していく。その原動力は、昔に戻りたいという願いだ。願いが虚構を創り出す。「夜は短し歩けよ乙女」はそんな想いが形を成したもの、なのかもしれない。大学生活を手放して、今の私はそう想う。

 せめて私も創作物の中では、ハツラツとしていたいものだ。

 ゴールデンウィークの終わりに、私は同人ゲームの企画書を書きながら、そう願っていた。