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Undertale 自由度の暴力【感想】

 昨日、ゼルダの伝説ブレスオブザワイルドが神ゲーだという話をした。

 ちょうどいい機会なので、直近でプレイしたUndertaleについても少しだけ筆を走らせよう。なぜならUndertaleもまた、自由度が生み出した神ゲーなのだから。

 

自由度はまるで暴力のように私たちの心を揺さぶる

 ここからはUndertaleのネタバレをしていくので、全ルートをクリアした人以外はぜひともプレイしてきて欲しい。後悔はさせない。

 

 さて、Undertaleでの自由度はどういったものだったのだろうか。私はこれを、殺戮の許可だと考える。プレイヤーはキャラクターを殺して経験値を奪い取ってもいいし、みんなと和解して幸せなエンディングを迎えてもいい。

 まさか最初から目につくキャラクターを虐殺しまくった人はいないだろう。いないと信じたい。大抵の人は何人か殺したり殺さなかったりでゲーム性を理解し、Pルートを進んでいくんだと思う。私も最初Torielを殺してしまい、あれ…まさかこれ、殺さなくてもいけるヤツだった!? と焦りやり直しました。(そして一部始終を見ていたFloweyに罵られた)

 ゲームの展開から、キャラクターを殺しちゃいけないゲームだと誘導される。これはある意味、自由度の剥奪だ。そしてプレイヤーの“セーブで上書きしたはずの行動”もFloweyやSansに知られているとなると、滅多なことはできない。もはや普通のゲームよりも行動の自由度が少ないんじゃないか。そう錯覚してしまう。

 しかし、Gルートをプレイ済みのみなさんなら知っているだろう。我々はその『自由度の制限』を打ち破ることができる。誰も殺さずにハッピーエンドを迎えたPルートのエンディングで、プレイヤーにそれとなく、殺戮の許可証を渡してくるキャラクターがいる。どうしてもというのなら、リセットしてもいいよ、と悪魔のささやきを耳にして、我々はGENOCIDEに手を染めるのだ。好きに殺し、雪だるまから取れるだけアイスを奪って、友達の兄弟を殺す。自分を止めるために世界から望まれたヒーローだってパターンを覚えれば殺せる。罪が背中を這い登るのを感じながら、指定された*決意の数を満たすために殺し回る。まるで野に解き放たれた自由な殺人鬼のように。

 そしてSansが誅罰のごとく最後に待ち構えているわけだが、ここでの会話も印象的だ。ゲーム世界のネタばらしが戦闘中に行われて、プレイヤーは自分の立ち位置が分からなくなる。自由度の果てにあるこの死闘がどんな意味を持つのか分からないまま、コンティニューをし続ける羽目になるのだ。

 私は正直、なんのために戦っているのか分からなくなった。Sansの倒し方を調べていくうちにSansの死に様も、その先に待ち受けているCharaとの会話も知ってしまい、ゲームが途方もないエンディングを迎えると『ネタバレ』されてしまった後になぜ戦うのか。もうやめてもいいんじゃないか。そう思ってハッとする。戦いをやめることも、戦い続けることも『自由』なのだと。

 このゲームが抱えている自由度に暴力性を感じたのはこのときだ。知らず突きつけられている、透明で無言の選択肢がこの世界の命運を左右してしまう。これはゲームか? 本当にゲームなのだろうか? もはや私は、現実に現れる選択の痛みと同様のものを感じてしまっていた。選ぶ苦しみから逃げるために、私は無心でSansに挑み、やがて殺した。

 自分の選択で世界が動くのは、ゲームの特権であり、ゲームならではの楽しみだ。それを自由度という。ゼルダbotwはプレイヤーの行動を制限せず、世界の変化を許容して、それでも世界が成り立つように緻密な設計がされていた。

 対してUndertaleでは、プレイヤーの自由な殺戮が世界に致命的な一撃を加える。一度Gルートをクリアしてしまえば、不可逆の改変が世界に行われてしまう。暴力的な自由度に、私は打ちのめされてしまった。神ゲーだった。だけど、神ゲーの一言では終わらせられない、恐ろしいゲームだった。

 そして一番恐ろしいのは、このゲームがほとんど一人のアマチュア製作者の手によって作られていることだ。Toby Fox……恐ろしすぎる。

 ゲームはこんなにも恐ろしい経験をプレイヤーに与え、しかもそんな恐ろしいゲームを一人の人間が作れるのだと知る貴重な体験のできるゲームだった。